『殯の森』
『殯の森』
先日友人と奈良県出身の河瀬直美監督の作品『殯の森』を鑑賞したのですが、まさにこの作品を今、病院に見舞いに来てくれた友人を自分が招待して見ることになったのは運命だ、と感じました。
これからこの作品について、自分の感じたことを率直に書いていきます。監督の意図したことと違う部分も多いと思います。ただ、自分が感じたことは、自分にとっては真実で、最も重みのあることです。それでは始めます。
まず、この作品が何を伝えようとしているかについてです。主人公の2人(しげきさん、真千子さん)は、ともに愛する人を失っています。そのとてつもない喪失感に対し、どう向き合い、生きる意味を見出していくのか、そしてそれは決して一人で出来るのではなく、今ここに生きて、自分を支えてくれている人の助けを借りて成しえる事だ、というのが強く主張されていたように感じました。
それは、登場してくる僧侶の言葉に象徴されていたように思います。「生きている気がしない」という、しげきさんの問いかけに対し、僧侶はこう応えました。「生きているというのは、2つあります。1つは、ご飯を食べる事です。ご飯はおいしいですか?」主人公は、はい、と答えます。それに対し僧侶は、「では1つ目の生きている、というのは出来ているわけです。でも生きている感じがしない。何で生きているのかが分からない。これが2つ目の生きているという意味です」ここで僧侶は、隣にいる介護士の女性(真千子さん)に声をかけ、主人公の名を呼び、手を握るよう頼みます。僧侶は続けます。「しげきさん、真千子さんの優しい声が聞こえますね。そして温かい手を感じますね。これが生きているということなんです」
途中、2人がしげきさんの妻の墓を探して森の中をさまようシーンがずっと続きます。しげきさんのおぼろげな記憶を頼りに長時間険しい道を歩き続けます。気持ちばかりが焦って休みも取らず歩き続けるのですが、しげきさんの体力は限界に近づき、安易な方法を取ろうとします。滝壷に入水し、あの世で妻に会おうとします。真千子さんは半乱狂で叫びます。「いかんとって!!」
それは単に、目の前で人が死ぬのを見過ごことに対し罪悪感を持つ、という普通の感情以上のものであると私は感じました。真千子さんにとってしげきさんは、ともに自分の喪失感を昇華させる旅をしているかけがえのない存在であるという感覚もあるでしょうが、彼女には、しげきさんが心の底から殯を完了していない、という直感があったのではないでしょうか。
ここで死の世界で愛する人に会える、という方法を取る事は、人間の根源の感情、それを仮に魂と呼ぶ事にしましょう、の救いにならないと真千子さんは見抜いていたのです。
結局彼を思いとどまらせたのは、魂から叫び呼びかけている真千子さんの姿でした。
焚き火で暖を取りながら一晩を明かし、朝ぼんやりと目を開けると、そこには30年以上前に亡くなった妻の姿がありました。しげきさんは妻と2人の好きだったダンスを踊ります。しばらくして目覚めた真千子さんも、何の不思議も感じずに、その光景を眺めていました。
ここで2つ目のテーマが出てきます。死は永遠の別れではないのです。死んでしまったら亡くなった方と過ごした時間はそこで一切止まり、現世での繋がりはすべて断ち切られる、としげきさんが思い込んだのが、彼の苦しみの始まりではなかったのかと感じました。
彼が、妻は唯一無二の存在だった、その繋がりは断ち切られた、その代替は一切ない、と考えたら、そうしたら生きている意味がない、早くあの世に行って妻に会いたい、と思うのは自然でしょう。そして彼は自分の世界に閉じこもり、ひたすら日記を書き続け、妻との思い出に浸って日々を過ごしました。それでは抱えきれない喪失感は消えないでしょう。大切なものを失ったことに焦点が合っているからです。2人で得た事の方が一杯あるのに、人は欠けている部分に注意を向ける傾向があります。
しかし、真千子さんに心を開き、共に喪失感に向き合ううちに、ついにこの世で妻に会うことが出来ました。つまり、人間の根源、魂というのは、現世と別の世界でも通わせることが出来る、と私は考えます。決して宗教的な解釈を引き合いに出しているのではありません。異論もあるかと思います。ただ問題にしているのは、来世があるか、魂は不滅か、等の宗教、哲学的なテーマではなく、今生きている私たちがいかに心を開き、魂を豊かにするかということなのです。
そして、とうとう妻の墓にたどり着きました。しげきさんは、妻が亡くなってから書きためていた日記を地面に置き、「ようやくここまで来ました」とつぶやきます。彼の中で、妻の死は受け入れられなかった、だから殯を終える事ができなかったのです。
そして彼は妻との大切な思い出の詰まった箱からオルゴールを取り出し、真千子さんに託します。それには2人の大好きな曲が収めてありました。その曲を真千子さんが奏でる中、彼は妻の眠る墓の周辺の地面を掘り始めます。そして、出来た穴に体を横たえ、土のやわらかい感触に心から安らいだ表情で、「もう休もう」と呟きます。
その間、真千子さんはずっとオルゴールを回し続けています。その軽やかな音色は木々の間から見える空に向かって吸い込まれていくようです。真千子さんは天を仰ぎ、はらはらと涙を流します。それは悲しみというよりも、しげきさんの満ち足りた魂が、上へ上へと昇っていくのを感じ、共鳴し、自然と涙が溢れてきているようでした。その時の彼女の表情は、魂そのもののように、純化されていたように見えました。
帰りの電車の中で、私は友人に対して多弁になり、手振りを交えながら話し続けました。その友人は、同期に入社して知り合い、自分が心の底から話せる本当に大切な人だったのです。そして、病状が落ち着いた頃、事故のことを知らせたら、病院に飛んで来てくれたのです。その時事故のことをかいつまんで話したら、彼女は貧血を起こしそうになってあわててしまいました。それほど心配してくれたのかな、と感動しましたが。
私の頭の中で、なにかが整理され、言語化が始まりました。
その要点は、「昨年はいろいろな体験をした。そしてその度に、いろいろな方にお世話になった。もちろん貴方はその一人だ。そのおかげで、体験が何を教えてくれているのか、その段階ごとに知る事ができた。私は周りの方々のおかげで、このチャンスを生かすことが出来た」ということです。
正確には生かせているかどうかは、まだ途上で分かりませんが、こんな覚えの悪い奴でも、少しずつは掴んできていると実感しています。
そして、乗り換えの駅で別れ、友人はもとの日常に戻っていきました。
Then , what to do next ? 私の修行はこれからです。
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投稿者: bless 日時: 2008年01月24日 02:19 | TOPページへ ▲画面上へ
『殯の森』を最後までお読下さいましてありがとうございます。
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この記事へのコメント
コメント:「生きる」ことと「愛する」こと 『殯の森』から
茶巾様
殯の森へのコメントありがとうございます。管理人です。
茶巾様のおっしゃるように、「生きる」ことと、愛することはとても強くリンクしているように感じます。
これは私見ですが、「生きる」ことを肯定的な面から見たとき、それは「愛する」ことと等しいのではないか、とさえ思います。
日常の中で出会う人々、生き物、自然、そして出来事、その中に大切なもの、愛おしいもの、かけがえのないものを見出したとき、そしてそれに感じ、囲まれて生きている自分をも愛することができるようになったら、どうでしょう?
雨上がりの空、冬の星空のように、見慣れたはずの風景が全く違っているかもしれません。
そして、自分を「愛する(ここでは尊重する、認めると言い換えておきましょう)」、2人が出逢ったとき、さらにお互いの素晴らしいところを愛さずにいられなくなるのではないでしょうか。
それは性別の違いや結婚云々ではなく、人間として惹かれあうということです。
そうして「愛する」対象が増えていけば、毎日はとても満ち足りたものになるでしょう。
さて、『殯の森』のように、愛する人と「この世」での交流ができなくなったとします。
先程から書いているように、「愛すること」は「生きること」の大きなエネルギーです。
その喪失感から抜け出すことは、容易なことではありません。
身近な人の死を体験するなど、人がつらい出来事を体験し、悲嘆のどん底から立ち直る心理的プロセスを研究したアルフォンス・デーケン氏 (上智大学文学部教授)は12段階ものモデルを示しています。
1、 愛する人の死の衝撃により一時的に現実感覚が麻痺する状態、一種の防衛機制 <精神的打撃と麻痺状態>
2、 相手の死という事実の受容を拒否する<否認>
3、 身近な死に直面した恐怖から、極度のパニックに陥る<パニック>
4、 不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを覚える<怒りと不当感>
5、 周囲の人々、あるいは故人に対して、敵意という形でやり場のない感情をぶつける <敬意とルサンチマン(うらみ)>
6. 悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ、自分を責める<罪意識>
7.
7、 死者がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う <空想形成、幻想>
8、 健全な悲嘆のプロセスの一部。早くの乗り越えようとする努力と周囲の援助が大切 <孤独感と抑うつ>
9、 日々の生活目標を見失った空虚さからどうしていいかわからなくなる。<精神的混乱とアパシー>
10、 自分の置かれた状況を明らかにし、勇気を持って現実に直面する<あきらめ>
11、 ユーモアと笑いの再発見<新しい希望>
12、 新しいアイデンティティの誕生<立ち直りの段階>
多くの患者さんと接した臨床経験をもとに、こんなに沢山のステップが必要と考える専門家もいるくらい、死というショックから受容にいたる課程は、とても重要なことなのです。
そしてそれには、周りの方の「愛」が不可欠だと、自分の経験から思います。
とても長くなってしまいしましたが、デーケン氏が提唱しているのは、「この世」で愛する人と新しい体験を一緒にすることができなくなったという悲しみを十分に感じること、そして、その人と共に過ごせた素晴らしい時間に感謝し続けることではないでしょうか。
あなたがその方を愛する限り、繋がりは失われていません。
そして、生き物の時間はそれぞれ違います。一緒に過ごせた時間を稀有なものとして、心に大切にしまっておく、そしてそれを糧に次に進んでいく。
人生は、そんな繰り返しなのかもしれません。
その課程は、茶巾さんのおっしゃられたとおり、「長くて、さみしい」ものなのかもしれません。「でもそれをあたたかくしてくれる可能性は」自分の周りにあることを愛してみることにあると思います。
長くなりましたが、私にも考えるきっかけを下さってありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。
投稿者: 管理人 | 2008年02月14日 22:14
『殯の森』 先日友人と奈良県出身の河瀬...
こちらでは初めて書き込みいたします。
殯の森の感想拝見しました。
大切なもの、愛するものって、「生きる」ってこととすごく強くリンクしているんですね。
とくに大切なものが無いときなんかは、特別生きたいとか思わなくても、
大切なものができた途端に生きてることがすごく幸せになったり。
たぶん、その逆もまた然りなんでしょう。
大切なものを亡くしたその喪失感が大きすぎると、
「次」にすすむための心が止まってしまったりもするかもしれません。
「今ここに生きて、自分を支えてくれている人」がいるのに、
それが生きようという心につながらないのは悲しいです。
いなくなってしまったものを、もう戻ってこないものとして忘れようとすることは、
きっとつらくてできません。
また、そのいなくなってしまったものを求めて、
自分もいなくなってしまおうとしても、
きっと本当に大切なものは取り戻せません。
なくしたものを自分の中に「得て」いく道程は
とても長くて、さみしくて、
でもそれをあたたかくしていける可能性はすぐ近くにあるんじゃないかなとか、
ぐるぐる考えてる今日この頃です。
含蓄ある記事をありがとうございました。
投稿者: 茶巾 | 2008年02月02日 03:28